2017-10

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「1994年のサン・マリノGPを思い出して下さい」

先日、サンマリノグランプリを見ていて、ふと思い出して昔のメルマガをひっぱりだしてきた。
1994年のサンマリノグランプリは、ホントに悪夢のようなグランプリだった。
日本では、アイルトン・セナの死ばかりが取り上げられるが、もう一人、忘れてはいけない人がいる。

これは、2000年2月8日~2000年3月14日の期間に全6話にわたって、まぐまぐでWANI HAZELさんが発行されたメルマガをそのまま(広告部分は削除)載せています。本当は、WANI HAZELさんに連絡を取ってから、載せたかったんですけど手段がなかったのでお許しください。問題がありましたら、削除いたします。

  「1994年のサン・マリノGPを思い出して下さい」
        ~RRR~    VOL1(全6話)

 1994年のゴールデンウィークに、たまたまうまく休みが取
れたのでヨーロッパへ行こうと思った。1週間前に決めたので航
空券が手配できるか心配だったが、愛用の旅行代理店のおかげで
行けるようになった。目的地をミラノにして、ちょうどイモーラ
で開催されるサン・マリノGPを見に行くことにしたのだ。GP
は1993年のアデレードを最後に見に行っていなかった。その
時は街にホテルが取れなかったので、グレネルグというとなり街
のホリデイアパートからトラムに乗って見に行った。決勝の日、
トラム中央駅から歩いてコースに向かっていると、初日に空室を
たずねた豪華なホテルの前でばったりとアイルトンに出会った。
思わず「ハーイ」と声をかけてしまった。アイルトンもゆっくり
微笑みながら、「ハーイ」と答えてくれた。彼はカローラのよう
なレンタカーを自ら運転してコースへと向かって行った。

 フライトはCX便で福岡から台北、KL便で台北、バンコク、
アムステルダム、ミラノリナーテの長旅だが、これが手配できる
中で一番安く早いのだ。このコースは1993年モナコGPを見
に行った時にも、利用したことがあった。台北で8時間のトラン
ジットがあるが、成田に前泊して行くより早いのだ。

 まずまずの快適なフライトでアムステルダムに着いた。ヨーロ
ッパのにおいがする。いい匂いもあるがそうでないものもある。
乗り継ぎカウンターでミラノリナーテ便のチェックインをすませ
た。11時にはリナーテに着くので今日の宿はボローニャに決め
ていた。アデレードではホテルに泣かされたので、今回はクレジ
ットカードの特別料金で泊まれるホテルをとりあえず1泊確保し
ていた。フライトは順調だった。相変わらずイタリアはインフレ
で金額が大きくわかりにくい。バスや電車のチケットを買う時に
も、少々戸惑ってしまった。

 夕方前にはボローニャに着いて、駅から歩いて15分のホテル
にチェックインした。そこはいわゆる街のへそに位置していた。
駅からはちょっと遠いが、まわりの景観は良く部屋も気に入った
のでもう2泊することにした。ここを基地に2日間、サン・マリ
ノGPを見に行くことになった。

 旅の汚れをシャワーで落として、RAIテレビを見ていると、
ちょうど金曜日予選1日目のダイジェストが始まった。トップニ
ュースはルーベンスの事故だった。かなり激しくタイヤバリヤー
にぶつかっていた。もちろん予選は中断し、レスキューチームが
処置に向かっていた。この約10年間GPで死亡した人はいなか
ったので、大事には至らないだろうという気持ちで見ていられた。
残念ながらルーベンスは明日から欠場するようだ。番組が終わっ
て明日のイモーラ行き電車の時刻を確認するために駅に行った。
帰り途中に、イタリアンファーストフードで夕食をとったのだが、
注文したパスタはのびのびだった。明日は、まともなレストラン
で食事をとらなくてはと思った。

     いかがでしたか、次回もよろしく。
               WANI HAZEL

 ~RRR~    VOL2(全6話)

 時差ぼけもなく気分爽快で目が覚めた。KL便が快適だったか
らだろうかと思いながらホテルの質素な朝食をとった。身仕度を
すませ駅へと向かった。イモーラへは電車で30分もかからない
だろう。GPのチケットはまだ手に入れていなかったが、アデレ
ードやスパ・フランコルシャンのように自由席があるだろうと思
っていたので、あせってはいなかった。しかし、モナコの場合そ
うはいかない。指定席しかないのだ。コースを想像してみればわ
かると思うのだが。私は丘に登って無料で観戦した。予選はプー
ルの出口で見ていたが、目の前のシーンしか見ることができない
ので少々不満だった。そこで決勝は、コースのおよそ全体を見渡
せる住宅街の丘を見つけて、何人かの現地人?と観戦した。した
がって自由席があると、いろいろなコーナーから観戦ができるの
で、いつも予選と決勝がセットの自由席チケットを買うことにし
ていた。

 小さなイモーラの駅に着いた。電車で行けるGPは、非常に気
に入っていた。モナコやアデレードもそうだし、カナダは地下鉄
で行くことができる。一度スパ・フランコルシャンにレンタカー
で行ったことがある。近くのリエージュの街に宿を取って。土曜
日の道は混んでいなかったが、日曜日は混んでいて午前中のイベ
ントを少し見逃した。スパ・フランコルシャンは、そこまでして
も見に行く価値があったが。コースが位置している環境が山の中
で緑が多くとても良い。また、天候が変わりやすいことも理解で
きた。私は晴れ男なので、雨には降られなかったが。

 駅を出ると、いつも見かけるマルボロギャルが、ポスターやス
テッカーを配っていた。モナコでは街の至るところにキャンペー
ンギャルがいて、何かを配っていた。ヨーロピアンという新聞を
もらったこともある。イモーラの駅からコースまでは15分もあ
れば着く。中世風の建物があり趣があった。向かいの家同士、物
干し竿をかけて洗濯物を干している下を歩いて通った。チケット
売り場はまったく混んでいなかった。いつも通りの自由席チケッ
トを買った。入り口ではジタンギャルがステッカーを配っていた。
キャメルギャルを今日はまだ見ていなかったので、どこにいるの
だろうかと見渡してみた。

 コース内に入ってみると、緑が多いので気に入った。まだフリ
ー走行前だったので、ぐるりとコースを1周して、観戦ポイント
を探した。今日も晴れていい天気だった。昼食は出店で買うつも
りだったので、メニューをチェックしながら歩いた。フリー走行
中はいろいろな角度から見ることができた。そして、予選の観戦
ポイントを決めて昼食をとっていた。すると近くにいたフランス
人が話しかけてきた。「日本人か」と聞くので「そうだ」と答え
ると、「鈴木亜久里にはフランスの血が流れているんだよ。」と
嬉しそうに言った。かなりのGPフリークのようだ。昼食中は、
フランス人とGPの話を中心に語りあった。彼はお気に入りの観
戦ポイントがあるらしく「また会いましょう。」と言って、予選
が始まる前に移動してしまった。これから起きることを、ヨーロ
ッパのフランス人として、彼はどのように感じたのだろうか。し
かし、彼にはその後、会うことができなかった。

     いかがでしたか、次回もよろしく。
               WANI HAZEL

 ~RRR~    VOL3(全6話)

 予選が始まった。爆音が聞えてきたが、耳栓はモナコとは違い
必要なかった。モナコの席は、コースに近すぎて耳が痛いのだ。
ちょうど最高速度が出るあたりを、うろうろしながら観戦してい
た。始まりは静かだった。天気がいいのであせる必要はないのだ
ろう。ぼんやりと観戦していたら、目の前にクラッシュした車が
よろよろと走って来た。シムテックだ。新規参入チームだが、M
TVがスポンサーに付いているので、車のデザインは印象的だっ
た。ドライバーはうなだれていて意識を失っているようだ。赤旗
で予選はストップした。場内のスピーカーから事故は、ローラン
ド・ラッツェンバーガーだとわかった。レスキューチームが駆け
つけて治療を始めた。空からはヘリコプターもやってきた。すば
やい対応だ。1986年ポール・リカールテストでのエリオ・デ
・アンジェレス以来、またGPにおいては1982年のジル・ビ
ルヌーブとリカルド・パレッティ以来、死亡事故は起きていなか
ったので、今回も助かると確信していた。マーティン・ドネリー
の事故でも、また以前ここで起きたゲルハルト・ベルガーの衝突
炎上事故でも、助かったのだから。誰もがGPカーの安全性は高
まっていると信じていた。昨日のルーベンスの事故でも安全性を
再確認したのだから。ヘリコプターでローランド・ラッツェンバ
ーガーは運ばれて行った。ここにいるとローランド・ラッツェン
バーガーの状態は、まったくわからなかった。

 予選が再開されたが、なんとなくみんな慎重に走っているよう
な感じがした。ローランド・ラッツェンバーガーの状態を、早く
知りたかったので、予選終了後、早々にホテルへ戻った。ホテル
でRAIを見ていると、特別番組が始まった。ローランド・ラッ
ツェンバーガーは死亡したとの事だった。私にとっては信じられ
ないことだった。カーボンのボディで、あれだけ安全性が高まっ
ていたはずなのに、なぜと思った。カーボン神話が消えてしまっ
た気がした。そんなに激しい衝突だったのだろうか。特別番組を
通してローランド・ラッツェンバーガーを詳しく知りたくなった。

     いかがでしたか、次回もよろしく。
               WANI HAZEL

 ~RRR~    VOL4(全6話)

 オーストリア人のローランド・ラッツェンバーガーが、GP事
故で死亡した。「なぜ彼だけが助からなかったのだろうか。」と
疑問に思ったが、事実を受けとめることしかできなかった。新チ
ームから1994年にGPデビューした、ローランド・ラッツェ
ンバーガーを忘れないために彼について多くのことを知りたかっ
た。

 ローランド・ラッツェンバーガーは、1960年7月4日にド
イツとの国境の街Salzburgに生まれた。当時は冷戦の渦
中にあり、西ドイツとチェコスロバキアとの国境が近くにあるの
で警備は厳重だったに違いない。今では想像できない状況だった
だろう。そんな街でローランド・ラッツェンバーガーは生まれ育
った。バス大学ではサイエンスバイオロジーを専攻している。ヨ
ーロッパの大学は卒業するのが難しいので専門知識を有している
のだろう。GPでの成績は、1994年より参戦して予選通過は
2回である。決勝周回数は78周、合計走行距離は289Kmだ。
これだけしかGPの成績は残っていないが、1994年4月30
日に33才9ヶ月26日で亡くなった、ローランド・ラッツェン
バーガーを忘れないで欲しい。GPデビュー前には様々な記録を
残しているのだから。

 1985年にはFF1600でオーストリア、ドイツ、ヨーロ
ッパ選手権で優勝している。これをバネにイギリスへ渡る。19
86年には、ブランズ・ハッチFF1600フェスティバルで優
勝した。彼はイギリスですぐに親しみのある存在になったのだ。
なぜなら、TVアニメで人気があったローランド・ラットと名前
がよく似ていたからだ。翌1987年にはイギリスF3に参戦し
て、総合ランキングは12位だ。その時のメンバーがすごい。総
合ランキング1位はジョニー・ハーバート、2位はベルトラン・
ガショー、3位はマーティン・ドネリー、5位はデーモン・ヒル
だ。また、その年にローランド・ラッツェンバーガーはヨーロッ
パF3にも参戦していて、第1・2戦で5位入賞を果たしている。

 イギリスF3で戦ったジョニー・ハーバートとは、一番の仲良
しだ。ジョニーはローランドのことを「紳士で、信頼できて、い
つも丁寧で、背が高くハンサムで、笑顔が良かった。」と言って
いる。

 1988年、イギリスF3は総合ランキング12位、またイギ
リスF3000では総合ランキング3位である。ドニントンF3
000では優勝を果たした。翌1989年、イギリスF3000
は総合ランキング3位と2年続けて健闘している。しかし、ヨー
ロッパでローランド・ラッツェンバーガーはあまり高く評価され
ていなかったので、新天地の日本を目指した。

 1990~91年、日本ツーリングカー選手権では2年連続総
合ランキング7位、日本スポーツカー選手権では90年富士で優
勝、91年鈴鹿で優勝して、総合ランキング9位と15位だ。

 1991年、ローランドに大きなチャンスがやって来た。イン
ディカーをテストドライブできるのだ。それもチャンピオンを取
ったマイケル・アンドレッティのマシンだ。ローランドのドライ
ブは、アメリカのスターにわずか10分の1秒しか遅れなかった。
また、ジョーダンチームからF1へ参戦する計画も進んでいた。
しかし、彼のスポンサーが降りて話がなくなってしまい、翌年よ
り日本F3000に参戦するのであった。

 1992年、日本F3000では総合ランキング7位、鈴鹿で
優勝した。この年のライバルには現在GPで活躍しているフィレ
ンツェン、エディ・アーバインとミカ・サロがいた。また、ルマ
ン24時間では9位に入った。翌1993年、日本F3000で
は総合ランキング12位、この年もフィレンツェン、エディ・ア
ーバイン、ミカ・サロと戦っていた。また、ルマン24時間では
トヨタ・サードチームのエースとして5位入賞と大健闘している。
これらの実績を持って1994年より新規参入シムテックチーム
のセカンドドライバーとしてGPデビューを果たした。

     いかがでしたか、次回もよろしく。
               WANI HAZEL

~RRR~    VOL5(全6話)

 1994年、いよいよローランド・ラッツェンバーガーがGP
にデビューした。初戦はブラジルGPだ。GPカーはシムテック
S941、エンジンはFordHB3.5V8、タイヤはグッド
イヤー、燃料はElfだ。金曜日予選1日目、1セットのタイヤ
で1周以上できないひどい状態だった。「アンダーステアがひど
く、うまくコントロールできなかった。唯一のベストラップでは、
1つコーナーでミスを犯してしまい0.5秒も遅れてしまった。
シムテックチームは新規参入なのでまだまだ改良が必要であるこ
とを再認識した。」とローランドは言った。明日までに出来る限
りの改良をしなければならなかった。

 土曜日、午前中のフリー走行では、エンジンがミスファイヤー
を起こして1周すらできなかった。予選スタート直前にはダンパ
ートラブルが見つかり、交換してコースインした頃には雨が降っ
てきた。ローランド・ラッツェンバーガーは、何もすることがで
きず予選落ちとなってしまった。

 第2戦は、第2の故郷で開催されるパシフィックGPだ。ブラ
ジルGPの悔しさのため気合が入っていた。4年間レース活動を
してきた日本でどうしても成績を残したかったのだ。金曜日、フ
リー走行では気合が空回りしてしまいスピンして壁にあたってし
まった。車のダメージはひどくなかったが、修理する十分な時間
がなく今日の走行はこれで終りになった。「明日の予選2日目は、
ブラジルGPのように雨にならないことを祈る。」と彼は言って
コースを後にした。

 土曜日予選、雨には降られなかった。車もチームがしっかりと
直してくれた。おかげで予選を突破できた。「慣れ親しんだ日本
で、最初のGP出走ができることを自ら賞賛したい。明日は完走
してできるだけたくさんの経験をするのがとても楽しみだ。19
84年モンツァでは、3人のオーストリア人が出走して3人とも
ポイントを取ったので今回もそうなって欲しい。」と彼は語った。

 日曜日、初めて決勝の出走をした。そして彼はうれしそうにこ
う言った。「初めて完走できてうれしい。身体的にはまったく問
題はない。また、できるだけハードにドライブしても完走して戻
って来れた。」26位スタートで11位完走。自己ファーステス
トラップは9周目に出た。22番目の速さだが。

 第3戦はイタリアのイモーラで開催されるサン・マリノGPだ。
イモーラは、ボローニャから32Kmのところに位置している。
ここはフェラーリのホームコースとよく言われるが、歴史は意外
である。オープンは1952年、しかし1963年までGPは開
催されなかった。驚いたことに、最初のGPにはフェラーリの姿
はなかった。それはノンチャンピオンGPだったからだ。その時
は、ロータスのジム・クラークが優勝している。1979年には、
フェラーリでワールドチャンピオンを獲得したジョディ・シェク
ターを祝うノンチャンピオンGPが開催された。

 そして1980年よりレギュラーGPとなった。1982年の
GPでフェラーリチーム内の争いは凄かった。それはジル・ビル
ヌーブとティディエ・ピローニの争いだ。ティディエ・ピローニ
がチームオーダーを無視して、トサコーナーでジル・ビルヌーブ
をかわした。これがジル・ビルヌーブがゾルダーで命を落とす、
13日前の出来事であり、また最後のGPとなった。

 1987年にはネルソン・ピケがタンブレロコーナーで大事故
を起こしたが、幸運にも大怪我からは免れた。また、1989年
にはゲルハルト・ベルガーがここで激突炎上事故を起こしている
が、1レース休んだだけですんだ。この事故に関してはフロント
ウイングに欠陥があったことを、フェラーリチームは認めている。

     いかがでしたか、次回もよろしく。
               WANI HAZEL

~RRR~    VOL6(全6話)

 いよいよローランド・ラッツェンバーガーの地元ヨーロッパで
のサン・マリノGPが始まった。「金曜日予選は、とても車の調
子が良かったので、ドライビングパフォーマンスを集中して改善
できた。たくさんの改善点を見つけて実行することもできた。今
日の唯一の不満は、スローコーナーで少しアンダーステアだった
ことだけだ。」と彼は自信ありそうに話していた。

 土曜日、予選中シムテックチームに深い悲しみが走った。ロー
ランド・ラッツェンバーガーが事故で亡くなったのだ。搬送され
たボローニャMaggiore病院で、午後2時15分帰らぬ人
となった。ローランド・ラッツェンバーガーの家族や友人にチー
ム、主催者、メディアから哀悼の言葉が送られた。彼は26位で
予選通過をしていたのだ。

 事故はタンブレロコーナーからトサコーナーへの、ビルヌーブ
カーブで起きた。最高速度が出るこの辺りで、リアウイングかフ
ロントウイングにトラブルが起きて、ほとんどすべてのダウンフ
ォースを失い、減速できずに300Km/h近い速度で壁に激突
したと推測される。やっとGPに参戦できて彼の疑いのない才能
を発揮できるはずだったのに残念である。

 一番親しい友人のジョニー・ハーバートは、こう言っている。
「ローランド・ラッツェンバーガーは天性のユーモアと明るいキ
ャラクターを持っていた。また、いろんなことを成し遂げてきた。
つまり、彼はオールラウンダーで、勇敢なドライバーだった。彼
を失ってとても寂しい気持ちだ。」


 土曜日、私の目の前で起きたローランド・ラッツェンバーガー
の事故を契機にこれらのことを知った。明日の決勝はあるのだろ
うか、と思いながらも眠りについた。

 日曜日、とりあえずイモーラへ向かった。なんとなく静かなイ
モーラだったが、決勝は行われるようだ。昨日とほぼ同じ場所で
観戦していた。すると、また目の前で事故が起きた。アイルトン
・セナも亡くなったのだ。ネルソン・ピケやゲルハルト・ベルガ
ーが激突した、タンブレロコーナーで。私は信じられないGPを
見に来たのだった。アイルトン・セナの死も衝撃的だったが、そ
のために前日に起きたローランド・ラッツェンバーガーの死が、
忘れられそうな気がして寂しかった。6年過ぎた現在、アイルト
ン・セナは記憶・記録に残るGPドライバーとして、人々の心に
刻み込まれているだろう。しかし、ローランド・ラッツェンバー
ガーはどうだろうか。もう一度、あの信じられない出来事が起き
た、1994年のサン・マリノGPを思い出して欲しい。そして、
ローランド・ラッツェンバーガーのことも。

 1995年にイモーラはタンブレロコーナーを左、右の中速コ
ーナーに、その他も速度を落とすために大改修工事を行った。
                         ~完~

    いかがでしたか、次の機会にお会いしましょう。

               WANI HAZEL

コメント

確かにサンマリノGPでは、セナのことばっかり言ってるような・・・。ラッツェンが亡くなったあの頃、私は1歳でした。当たり前のように、何も覚えていません。そういえば、1995年のサンマリノGPではビルヌーブ・コーナーかトサ・コーナーのあたりにオーストリアの国旗が飾ってありました(ビデオで見た)。  きっと今もラッツェンは、天でSimtekと走っていると思います。ラッツェン、スッキャねん。

たしかにセナは偉大なドライバーでしたが、
そのおかげで話題にあがらないのはかわいそう
個人的には、期待していたドライバーなんですけどね

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